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※イラスト図面化 長崎電気軌道(株)1987-2005 承認済

自社製新造車の本格増備車

20形(20〜39号)


profile

車種

木造単車

両数

20両

自重

7,5t

定員

20・21・24号:45人    

全長

当初7,878mm 後年7,982mm

22・25・29〜39号:46人

全高

3,250mm

23・26〜28号:52人

台車形式

Brill21-E

全幅

2,121mm

モーター形式

当初GE-52A 後年GE-54

コントローラー

GE-B18

モーター出力

17,5kw×2

車輪径

787mm

歯車比

67:14

ブレーキ

手動・電気

製造年

大正8〜10年

在籍期間

大正8・9・10〜昭和29年

製造メーカー

長崎電気軌道・車両製作部   (茂里町工場)

通算11ヶ月〜34年間


解説


文中の※1〜は下記参考文献からの引用を示しています。

誕生
小刻みに延長・開業(築町〜思案橋、西浜町〜古町、長崎駅前〜諏訪神社、病院下〜下の川間)した※5.第3期線用として、新品のアメリカのGE社製品、台車・電動機を大正6年12月30日付で三井物産から購入。
大正8〜10年の3年間に、延長開業に合わせ5回に分けて20両が増備された。
13形の後を受けた長崎電気軌道・車両製作部の本格的な増備形式である。
特徴
1形の車体を短縮し、運転台の床を1段下げた設計の車体。
※5.
幕部の明かり窓は、1形同様の長方形のもの、楕円形、あるいは窓がないものと3種類あったが、後に改造され全て窓がないものとなった。
※2
一部の車両は戦時中にはシートの半減工事を行い、定員を52人に改めた事もある。23号は「車両製作部」のPRのため、大正7年に福岡で行われた博覧会に出品、車両製造技術が高く評価され、他社の車両新造(四国水力・土佐電鉄)、改造の受注のきっかけとなった記念すべき車両だ。また、花電車として使われる機会も多かった。
その後
大正10年5月23日の茂里町車庫火災で21、25、29、36号の4両を焼失。※7.38・39号は竣工後僅か20日後の事であった。
番号整理のためか大正13年5月に22号2代目21号に、38号2代目25号に、39号2代目36号に改番。昭和19年10月10日の大橋車庫火災で2代目25号(旧38号)を焼失。さらに昭和20年8月9日の原子爆弾被爆投下で2代目21、24、3233号の4両を焼失。
この4両は部品を再生して車体を新造。戦災復旧車として蘇り、再び20形の番号(2代目、および3代目)で昭和30年代まで活躍した。
戦後生き残ったオリジナル11両のうち26号は昭和26年7月に新造車体に乗せ替えられたが、※1その他の10両は側板に鉄板を張りリベット止めして補強した。※1しかし、木造車体のままに比べ接触事故等の修理が困難だったそうだ。
戦時中に酷使された為老朽化が激しく、昭和29年1月に300形デビューと交代に全車廃車された。※8.なお20号の台車・モーターは火災復旧車2代目124号で再生された(改番なし)
塗装の変遷
※9.デビュー時は小豆色だったのではないかと思われる。※3.緑一色が最も長く採用され(※8.昭和6年頃以降)。廃車時も大半の車がこの色であったと推定される。
集電装置の変遷
※7.当初、2本1組で車体中央に設置されてものを終点で折り返す度にヒモを引っ張って回転させていたが、折り返しの不便を解消するため、大正10年(1921年)頃から前後各2本2組設置に改められた。
また、戦前は片側2本ポールだったが、戦後の※3.昭和24年4月に1本ポール化された。


参考文献
※1.THE TIGHT COUPLAR47号(京都鉄道趣味同好会 昭和27年10月19日発行 「長崎の電車」 田栗優一氏)
※2.鉄道ピクトリアル41号 昭和29年12月号(私鉄車両めぐり18 昭和29年10月発売 長崎電軌 田栗優一氏)
※3.長崎電気軌道株式会社 40年誌(昭和29年10月20日発行)
※4.鉄道ピクトリアル275号 昭和48年2月号(私鉄車両めぐり95 昭和48年1月発売 長崎電気軌道 田栗優一氏)
※5.長崎電気軌道株式会社 五十年史(昭和42年4月1日発行)
※7.長崎「電車」が走る街 今昔(平成15年6月8日発売 田栗優一氏著 JTBキャンブックス)
※8.日本路面電車同好会 梨森武志氏の調査による
※9.筆者の見解による
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